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映画「春を背負って」を見てきました。木村大作監督の作品を見るのは、「剣岳 点の記」に続き2作品目になります。過剰な演出を排して、人間の自然な姿をおった映像が胸に迫るものがありました。また、立山連峰の美しい自然の美しさにも目をうばわれました。

そして、映画を見た後で原作を読みました。これが、映画とはかなり内容が違うんですね。ここでは、その違う部分を中心に「春を背負って」という作品をみていきたい。


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「春を背負って」の原作と映画の違い

最大の変更点は、物語の舞台

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原作では、舞台は奥秩父の梓小屋という山小屋であるが、映画では、立山連峰の薫小屋という山小屋が舞台になっている。ここが木村監督の一番のこだわりであるように感じる。ただ、この変更は色々な部分で物語の整合性を取るのが難しくなる原因をつくっているとも考えられる。

原作では、奥秩父の目立って見所もない場所にお客さんを呼ぶために亨の父親が苦闘する様子、そして、亨の代になってからも経営が苦しい様子が描かれている。しかし、立山連峰では、そういうことはおこらないように感じる。だって、立山連峰といえば、山の世界でいう銀座や渋谷のようなものでしょうから。

この変更は、映画という目に訴えるメディアには、有効だと感じるが、やはり原作の世界観を壊してしまっている感は否めない。原作者とすれば、木村監督だからこそ認めた変更だったのではないだろうか。


主人公、長嶺亨の職業

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映画では、長嶺亨は外資系投資銀行のトレーダーということになっているが、原作では、電子機器メーカーの技術者である。これは、山小屋での仕事とのコントラストをより鮮明にするための変更だと思われる。外資系銀行の上司が仲村トオルなのだが、かなりのはまり役だった。

最重要人物ゴロさん

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映画においても原作の小説においても抜群の存在感をしめしているのが、ゴロさんだ。映画では、豊川悦司が演じているが、原作のイメージにかなり近いものを感じた。この物語のキーパーソンであるが、映画と原作とでは、その人物像が異なる部分がある。

映画・原作ともにゴロさんは脳梗塞で倒れる(その場所は異なる)のだが、その際の「生」に対する意識が違う。原作では、病院にたどり着き、かなりの確立で病状がよくなる治療法を勧められるのだが、ゴロさんはその治療を拒む。医者嫌いということもあるのだが、僕はどちらかというと「生きる」ということに執着しない(あるいは諦めている)ゴロさんらしい一面が垣間みれる場面だと感じた。

映画では、ゴロさんが倒れるのは山小屋で、そこから下りるシーンが印象的だった。原作には登場しない中川聡史という人物は、このシーンのために用意された人物のように感じた。もちろんその他にも重要な役割がある。

父親・長嶺勇夫の死因

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映画では、冒頭のシーン(長嶺亨と父親の長嶺勇夫が雪の中を小屋を目指して歩くシーン)がとても印象的であり、この映画のひとつの見所になっている。その父親の長嶺勇夫が亡くなったことにより、息子の亨が山小屋を継ぐことになるのだが、その死因が原作と映画では異なる。

原作では、交通事故ということになっているのだが、映画では、滑落する登山者を助けようとして、自らの命を失うことになっている。原作の中で「死に場所は山のなかがいいと常々言っていた」という一文があるが、それをより強調するための変更だと思われる。


その他にも、重要な登場人物である高澤愛の名前が違う(原作では美由紀)ことや、山小屋に来た登山者が遭難するシーン(原作では、雪のシーズンに低気圧に遭遇して山小屋に非難するパーティーをモデルにしていると考えられる)など、原作とはかなり違う部分があるので、原作を読んでいる人も、新鮮な気持ちで映画を見れるように思う。

「春を背負って」のまとめ

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原作・映画ともにこの作品のテーマになっているのは、山小屋という特別な場所に集まる人の心のふれあいである。原作小説(文庫版)に笹本稜平氏と木村大作監督との対談があります。その中で、「山に登ってくる人たちというのは、都会の垢みたいなものを全部落としてくるから、人間が素なんですね。」という部分があるのですが、まさに素になった人間の強さ、弱さ、優しさ、温かさ、といったものが表現されている作品になっていると感じました。

また、映画では悠久の大自然の美しさを堪能できるので、ぜひ映画館で見てもらいたいと思います。エンディングの山崎まさよしの歌も最高でした。



 

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